保育の世界に「契約」という概念が入り込んできました。認定こども園では重要事項説明書という(不動産取引や保険の契約では前からありましたが)文章を渡し、内容を確認していただき、同意書を得る様に、という指導が入っています。お隣の企業主導型保育施設に至っては、もっと踏み込んで「保育契約書」という形にすべき、と指導してきます。私、保育の世界に「契約」という概念を持ち込む危険を危惧しています。

 この背景には、例えば入園説明会で話した内容と実際が違う。これは約束に反する。「〇〇をやっている」という説明があったから入園したのに、実際はやっていない。  
 入園前は保育料〇〇円と言っていたのに、入園して払う段になったら2000円値上げしていた。約束が違う。

こんな苦情があったものと推測しています。たしかにお金に関する点については、きちんとした説明が必要だと思いますが、今の世の中は食品の値上げが続いています。おいしい給食を提供するために、ある程度の値上げもやむを得ない面はあります。昨年9月の時点で、そこまで読み切れないので、どこの園でも「今年度の価格はこれです。来年度は変更する場合もあります」という説明しかできない訳です。入園する時になって違っていた。これも「やむを得ない」場合が大半だと思います。

 ですが、私が危惧しているのは「保育」そのものに「契約」という概念はなじまないと思う事です。例えば、契約書には「午後6時半まで保育」と書いてあったとします。保護者のお迎えが遅くなった。6時半を回ってしまった。契約を優先するなら、子どもを園舎の外に出し「契約時間が終わりました。あとは知りません」とドアにカギをかけてもいい訳です。だって契約書に書いてあるのですから、それを守らない保護者の落ち度である、という考えもできます。ですが、これが許されるのでしょうか?

 私は講師をしている専門学校で「保育とは気配りの集合体である」と力説しています。規則とか、前例とか、そんなものにとらわれず、「目の前にいる子どもにとって最善の保育」をすることが、私たちの仕事ではないか、と説いています。先の保育時間の例にしても、「お仕事大変ですね。事故にならない様、急がないでいいですよ。お迎えに来るまで私たちが見ています」と旭幼稚園のスタッフなら、誰でもこう言うはずです。

 規則や前例、契約よりも「目の前の子ども」が優先される。それが保育ではないですか?「こうしてあげれば、子どもは喜ぶ」「〇〇ちゃんには、これが合うだろう」こう言った「気配り」ができてこその保育ではないですか?   それは契約書に書き表せるものではないと思うのです。

この考え方ですが、今保育の世界で大切にしよう、言われている「非認知的能力」にもつながります。

「愛情」とか「思いやり」は目に見えないけれど、それが世の中では一番大切です、と言う事です。
文部科学省は「非認知的能力は大切です。これをを育てましょう」と言っているにもかかわらず、私たちには「契約書できちんと同意をとりなさい」と求める事に違和感を感じます。整合性が取れない。子どもを主語にしていない。子どもの幸福と言う、基本理念に反する行為のような気がしています。保育は契約で表せるものではない。気配り・愛情・思いやり。そういったものが保育だと私は思うのです。

皆さんはどうお考えですか?