先日、保育雑誌のバックナンバーを見返していましたら「保育は評価の時代へ」という記事が載っていました。保育というもの、国の政策によって大きく左右にゆすぶられ、とんでもない助成金がポンとついたり、いつも間にか制度が変わっていたりと、時代と政権、国民の声などによって変わる事を繰り返してきました。
  そこで問題になるのは、「誰のための保育制度なのか」という事です。本来、保育関係者というもの「子どもの幸福」という基本理念のもと、論議をしなければならない「はず」なのに、ご自身の都合や身勝手とも言える暴論を振りかざし、本来の目的(子どもの幸福)からかけ離れた議論を行ってきた歴史があるように感じています。

  保育も最初は「幼稚園と保育園を同格にする」「保育園の地位向上」という視点からスタートし、次第に働くお母さんが増えるに従い「保育園の量的拡大」を推進してきました。そしてやっと「保育の質の向上」「保育の充実」という(本来なら真っ先に取り組むべき課題)問題にたどりつき、そして今は「保育の評価」について論議をしているようです。

 私は「保育の評価」って何なんだろう、って思います。例えば「理想の保育」と思って取り組んだ保育があったとします。「誰にとって」理想の保育なのでしょう。「国にとって」「地域にとって」「園にとって」「園長にとって」「先生にとって」「親にとって」「子どもにとって」様々な理想があると思います。先ずそこがはっきりしていないのです。だから、雑誌に登場する著名な先生方も、自分が「理想」とする保育の姿を語られますが、よく見えてこないのです。

  例えば、(今回の対談もそうなのですが)「今の保育、こんな所はおかしいですよね?」って所では具体的な例がでてきます。たしかに、私のような地方の小さな幼稚園の園長であっても「それはないだろう」って思います。ところが話が進むにつれて、もっと子ども主体の保育にならないといけませんね、という話になる。ここまではいいのですが、じゃあ、どうすればいいか、という「結論」に近くなると「子どもの自主性を重んじた保育」「10の姿が展開できるような保育」がいいですね。という抽象的な表現が多くなります。最後になると「この理想に沿って、各園が努力していきましょう」という何とも抽象的を通り越したポワーっとした話で終わってしまいます。

私は雑誌に向かって叫びます。
「じゃあ、どうしたらいいんだ!具体的な活動・具体的な形を示してくれ!」って。

私以外の園長先生方は、この抽象的な結論を読んで、あれだけ各方面で活躍し、雑誌や講演会の講師をしている方々が言っている「理想の保育の形」は私が思い描いている、わが園の保育方針と同じなんだ、って思ってしまうのでしょうか?(抽象的な結論と言うものは、自分の好きなように解釈できます)

だから保育は難しい、と言う事が出来るのでしょうが…。